フランスの風刺雑誌「シャルリー・エブド」を発行していた新聞社への襲撃事件と、その後の容疑者立てこもり事件が世間を騒がせています。

 テロリストによって殺害された被害者には哀悼の意を示すほかありません。ありませんがやはり、下記のような絵を見ると、過激派が怒り狂う理由は理解できます。

(Twitterよりキャプチャ) 
すでにTwitterなどで多くの人が指摘していましたが、原発の影響で手足が3本になった日本人の風刺画などを描かれているのを見ると、僕もとても嫌な気分になります。

 しかし、言論には言論でかえさなくちゃいかん、「表現の自由」を暴力で脅かしちゃいかん、と世界中で声高に叫ばれています。フランスでは大規模な追悼集会が起こり、殺された編集長の名を借りて「Je suis Charlie(我々はシャルリーだ)」と掲げられています。
(Twitterよりキャプチャ)
その他にもヨーロッパ中の国々やアメリカの政府が「表現の自由を支持する」と声明を出しました。

 さて、この事件についてどういう意見表明をしようかと、色々迷いました。そして調べていく中で、
7年前に読んだこの記事のことが思わずよみがえりました。

いっそひぐらしのせいでもいいんじゃないのか、もう。フィクションは現実に影響するよ。 

 内容は、当時の青少年の猟奇的な事件が「ひぐらしのなく頃に」という作品に影響を受けたものだ、とマスコミからたたかれていたことについて、作品のファンが意見を表明したもの。筒井康隆の小説「大いなる助走」の影響を受けて殺人に走った少年が過去にいたという話に類似しているとし、筒井康隆がそれを肯定的に捉えていたことを伝えています。筒井はなんと

愛情に飢えたこどもに対して僕の文学は効きめがあったわけです。人殺ししちゃつた(笑)。


とまで言っています。

 もちろん今回の事件(読み手が書き手を殺した)と「ひぐらしのなく頃に」「大いなる助走」(読み手が書き手とは別の人物を殺した)とは根本的に構造が異なります。 しかし同様と言えるのは、ある表現が、受け手に「殺人」という行動に至らせるまでの影響を与えたこと。

 そもそも漫画や文章といった実態を伴わないものが、人の思想に影響を与え、行動まで改めしむる。それは表現することの醍醐味でもあります。
 僕も、高校2年生の時に村上龍の小説を読んで「もっと人生を楽しまなくてはいけない」「もっと勉強して世の中のことを知らなければいけない」と強く思ったことでその後の人生が変わりました。     
 僕も人に影響を与えたい、そのためにたくさん文章を書いたり体を動かして表現していきたい、と強く思うようになりました。

 けれど、誰も傷つけない強い表現などというのはこの世に存在しません。

 一生懸命調べて、考え抜いた末の持論を発表して記事が反感を買って炎上することもあります。とりわけネット媒体であれば、匿名であろうとなかろうと、容赦ない罵詈雑言が浴びせられることも。僕のような学生ですらそうなのだから、プロは日常茶飯事でしょう。ある時、元新聞記者の方に「ジャーナリストになろうと思います」と相談したら、「(後遺症の残る怪我をする場合もあるから)保険にはキチンと入っておきましょう」とアドバイスされたことに衝撃を受けました。

 日中韓の学生がそれぞれの平和を願い踊る動画をアップロードしたら、自身もヘイトスピーチに晒された友人もいました。

 だからといって誰も傷つけないでおこうと最大公約数的になれば、その表現からは魅力がなくなります。

  インスタントに「ええ話やなあ」と消費されてすぐに忘れ去られり記事がFacebook上にあふれかえっていたりしますが、そういった表現にはあまり価値がないと僕は思います。「ためになった」でも「感動した」でもいいですが、人に何か真剣に影響を与えようとするから価値が生じます。 

 個人的な反省もあります。昨年、僕がブログや他の媒体でさまざまな人にインタビューして記事にした際、また私見を書いた際にどこかで「嫌われたくない」という思いが強く働いて、必要以上に曖昧な表現をしてしまったこともありました。

 するとやはり、そういう記事は愛されないし、「中身がない」とばっさり言ってくれる人もいました。賛否両論まっぷたつ分かれるような記事、人の喜怒哀楽の気持ちを激しく揺さぶるような記事は総じて読まれます。

 繰り返し述べますが、何かを強く表現するということはそれがジャーナリズムであれフィクションであれ人を傷つけうるのだと思います。ある読者にとって届けなければならない情報は、別の読者や、取材相手にとって致命的なものであることは多々あるでしょう。楽しませるためのフィクションが差別だととらえられることもあります。

 「表現の自由」について、僕は専門家のような知識を持つわけではありません。しかしその権利が市民の、権力に対する闘争の過程で勝ち取られ、何度も脅かされてきた経緯は逆説的に、「表現とはある種の毒を内在するもの」ということを示しているのではないでしょうか。

 僕はもちろん殺されたくありません。けれど表現という毒に魅せられた一人なのだから、その扱い方に長け、正しい用途を心がけ、しかし「賛否両論」となることを怖れてはならないという、当たり前のことを再認識した日曜日の夕暮れときでした。